使者①「高句麗までは来たけど……なんやこの大海……日本ってこの先なん?とても渡れへんわ帰ろっと」
クビライ「もう一度行ってこい(#^ω^)ピキピキ」
使者②「一応メール(蒙古国牒状)したけど、半年も経っても返信ないんで帰るわ」
クビライ「……え、既読スルー?(´・ω・`)」
使者③「対馬までは来たけど、なんや拒まれるんで帰るわ……日本人二人捕まえてな!」
日本人「ファッ!?」
クビライ「よーしはりきってうちの国見せちゃうぞー!うちがどんだけ凄い国か伝えさせたらもうスルーせえへんやろ?(`・ω・´)」
使者④「前回捕まえた日本人返してまたメールしたけど、やっぱり返信もらえへん……」
朝廷「返信の草案作ったんやけど」幕府「今回もスルーやスルー」
クビライ「日本は礼を知る国ちゃうの?なんでまた既読スルーするのん???(´・ω・`)」
使者⑤「やっと日本が使者寄越してきたわ!……え、偵察かもしれないって?」
クビライ「で、返信は……?(´・ω・`)」
使者⑥「やっぱり返信もらえへんから帰るけど、鎌倉武士のヒャッハーっぷりとかやべーし日本攻めに反対はしとこ」
クビライ「返信……(´・ω・`)」
→そして元寇・文永の役へ
ソースは元史。
なお元史・巻二百八・外夷一・日本の記述はこの後、二度の元寇と第十三回までの使節を経て、
「ついに日本の使者が来ることはなかった……(´・ω・`)」で終わる。
なお使者⑤&⑥の趙良弼さんの報告↓
1: 名無しさん@おーぷん 2018/10/06(土)22:05:20 ID:Y4y
一年ほど日本に居た第五回&第六回使節の趙良弼さんの報告より
・獰猛で殺を嗜む
・親孝行を知らない
・上下の礼も知らない
・土地は山水が多くて耕作に利がない
・日本人を得ても役に立たない
・日本の土地を得ても富まない
・舟で海を渡るのも風は不定期で、損害を測ることもできない。
・日本征服なんて有用な民力で底なしの巨大の谷を埋めるようなもの
・結論、(元寇)反対
ここまで言われてなんで攻めてきたんや…
最近は鎌倉武士の奮戦も再評価されとるしなあ
上陸拠点作れなかったら毎年くる台風にやられるのは必然ちゃうか?
それに陸戦でも結構負けとったみたいやし、
海で補給も援軍もきいへんなら、
上陸しても長引くほどジリ貧やったんやなかろか
地の利もあらへんからどこなら有利とかわからんしなあ
自分にレスしてどないすんねんorz
>>3
当時の技術で敵の本拠地へ渡海侵攻は無理と違うか?
仮に博多制圧しても鎌倉は増援を簡単に送れるけど、
元の増援は船を往復させなきゃならんし
元から多量の船を所有してる様な国なら別かも知らんけど
>>7
民間の舟まで徴発して疲弊しとったとか、
高麗は造船で木材資源枯渇したとかいう話もあるしなあ
そもそも増援や補給送ってクレメンス…
って連絡すらなかなかできへんやろし
>>7
てか元は、当時の日本の本拠地が何処にあるのかわかってたのかな
当時の日本は都は京都だけど幕府は鎌倉、
仮に都を落としても幕府が健在なら戦は続きそう
当時の幕府は皇族将軍だから、お飾りとはいえ
都でなんかあったらその皇族立てて名分も立てられそうだし
趙良弼は大宰府から先へは行けなかったみたいだから
少なくとも鎌倉や京に行ってないし
>>3
つか神風ってあったのかなかったのか、
両方あったのか二度目だけなのか、
どの程度の威力だったのかってのも諸説あるんやな
昔読んだ歴史漫画ではどっちも神風のおかげ棚ボタになっとったけど
実際は元軍の多くは鎌倉武士にやられたともいうし
送ったとしても台風とかで届かないかもしれへんしなあ
確か弘安の役の後の、9回目くらいの使者も台風で日本に来れんかったし
>>9
日本の使者のことなら普通に帰ってきたで
ふぁ!?普通に考えたらお手紙の返事の使者やと思うんやけど違ったん?
>>12
趙良弼によれば太宰府西守護所まで行った時にそこの人から
「前から高麗にあざむかれて元が攻めてくるでーっ!て言われとったんやー。
いやーまさか元の皇帝陛下が生を好み殺を嫌うお人で、
度々使者を遣わしてお手紙くれとったなんて知りませんでしたんやー。
けど都はここからめっちゃ遠い所にあんねん。
せやからまずは人をやって趙良弼はんと一緒に元に送ってお返事さしあげたいおもうねんけどー」
と言われて弥四郎という人物ら26人も連れて元に帰国したらしいで。
フビライが守護所の人の話を疑って臣下に意見を求めたら、
「せやせや、日本はうちらが攻め込んでくる思うてビビってますのやろ。
やからそいつらをうちに送って強さを調べようとしとるんやろ。
ここは寛大さと仁徳を見せつけちゃるのがええやろ、けど拝謁は許さへん方がええけどな」
と皆して言うんで、弥四郎らのことは宴を開いて慰労して帰したらしいで
二回目の使者の親書は鎌倉に届いとるんやから使者や親書のこと知らんいうのは変やし、
これは誤魔化し引き伸ばしやろなあ
元から送られた国書の内容も、
元や高句麗に送るために考えたけど結局送らなかった国書の内容も
どっちも残っとるけどこの時のはないしなあ
返書はなしだったんやろな
でもワイも頑張ったのに恩賞貰えへんかったわ
すまんな
侵略戦争の勝ちじゃないから新しい土地があげられへんかったんや
迷わず成仏してクレメンス
昔はそれが嫌やったが今は面白
時宗の評価とか変わりまくったけど、今はまた上がっとるんやろか?
それは日本に限らないんじゃ?
元も元寇の前は金と、最中は南宋と、後はベトナムとかと、
それにヨーロッパとかインドとかとも戦ってるし
外国との戦争は比較的少ないだけマシやぞ
元寇以外にも刀伊の入寇とかもあったけどな
ちな元寇前後の使節一覧
1回目 高麗で引き返した
2回目 蒙古国牒状書持ってきたけど返事もらえなかった
3回目(1回目と同じ人) 対馬で拒まれて島民捕えて帰った
4回目 島民帰した
5回目 日本からの使者?連れて帰った
6回目(5回目と同じ人) フビライに>>1の報告した
(文永の役)
7回目 処刑…
8回目 また処刑…
(弘安の役)
9回目 台風で引き返した
10回目 日本に行きたくない船員に使者が殺された…
11回目 日本に来ずに手紙だけ届けた
12回目(4回目と同じ人) 鎌倉へ連行、のち15年後に病没
13回目 お坊さんだったんで幽閉のち赦免、日本のお寺の住職になった
昔は北条時宗や鎌倉幕府は海外の情勢に疎かったて叩かれてたけど、
どうも事前の情報収集もしてたっぽいな
5回目の使者の時の偵察の他にも、
高麗でも日本の船が元の偵察してたふしがあるし
南宋人の意見聞いたことも叩かれてたけど、
実際に元に侵攻されてる国の人の意見って貴重な情報やろし
どの程度まで察知してたかはともかく、初回の侵攻からして防備が良すぎるからな
>>22
国書を読んですぐ蒙古襲来に用心しろて通達出しとるしなあ
昔のなんかの番組ではそういうのも、
友好的だったモンゴルに対して過剰に警戒したと時宗を叩いとったけど、
実際はフビライは日本に使者を出した時にはもう日本攻めについて言及してたともいうから、
時宗の警戒は正鵠を射とったことになるし
服属しませんってはっきりいったら結局戦争やない?
なんて書けば戦争回避できんねん
という意見はようみるけど、その根拠って国書の文面以外にあるんやろか
その国書が最後に武力をちらつかせとるんやけど
口や手紙の文面が友好的やったら害意はない、なんてのもあれやし
当時の日本は遅れてたからガラケーやったんや
やっぱり反対した趙良弼は有能だな
当時の日本は蛮族だからw
悪役イメージあるけど有能な人物多いよな
御成敗式目の泰時も偉人だし
どうしてこうなった
昔の鎌倉武士観
豪放磊落で人情に厚く、風雅の道に通じ、正々堂々と戦う人間の鑑
研究が進んだいまの鎌倉武士観
問題の最良の解決法は、
手段を問わず相手を皆殺しにする事である、と信じて疑わない蛮族集団
>>37
大宰府、九州、薩摩、捨てがまり、胆練りじゃ、
全軍撤退、前へ
そうか、そういうことだったのか
そういえば島津家ってこの頃からあったんだね
元寇の武将にもいる
>>37
結構昔から下のイメージやったわ
昔の鎌倉武士観っていつ頃の話やろ
小説の時宗だと結構容赦ない所が描かれてた気がする
草燃えるって昔のアニメでも
ヒャッハーからドロドロの権力闘争までありまくりやったぞ
平安時代武士かてそんなイメージないやん?
>>51
粟田関白藤原道兼の子息、従者を殴り殺す
御堂関白藤原道長の子息、しばしば強姦に手を貸す
内大臣藤原伊周、花山法皇の従者を殺して生首を持ち去る
法興院摂政藤原兼家の嫡流、平安京を破壊する
花山法皇の皇女、路上に屍骸を晒す
小一条院敦明親王、受領たちを袋叩きにする
式部卿宮敦明親王、拉致した受領に暴行を加える
後冷泉天皇の乳母、前夫の後妻の家宅を襲撃する
はい
>>53
そいつら貴族やない?
繁田信一て人の「殴り合う貴族たち」「庶民たちの平安京」思い出した
あれめっちゃ面白かったわ
>>53
そのご乱行リストに混ざれる女性ェ…
北条政子もそんなことやってたな
分類すると、全13回使節中、来日しなかったのが3回、対馬で引き返したのが2回、
本土まで来れたのが8回か。
この時代でも割と来れてるんだな。
・来日せず
1回目 高麗で引き返した
9回目 台風で引き返した
11回目 日本に来ずに手紙だけ届けた
・対馬で引き返し
3回目(1回目と同じ人) 対馬で拒まれて島民捕えて帰った
10回目 日本に行きたくない船員に使者が殺された…
・本土まで到達
2回目 蒙古国牒状書持ってきたけど返事もらえなかった
4回目 島民帰した
5回目 日本からの使者?連れて帰った
6回目(5回目と同じ人) フビライに>>1の報告した
7回目 処刑…
8回目 また処刑…
12回目(4回目と同じ人) 鎌倉へ連行、のち15年後に病没
13回目 お坊さんだったんで幽閉のち赦免、日本のお寺の住職になった
鎌倉武士「てつはうなう(^q^)」
使者が島民拉致ってったのはなんで?
二重カコキスマン
本土に来た使者への対応は、
文永の役前がスルーまたは偵察と思われる使者を同行、
文永の役後、弘安の役前が処刑、
弘安の役後が助命するが帰さず、で綺麗に分かれてるのな。
内部では返書出すかどうかいろいろ議論されたみたいだけど。
返信がないからって攻めてくるのが友好的って解釈は謎
転載元:
http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1539436653/